医療現場の現状 治す医学と癒す医学

私は、治す医学と癒す医学が統合される事を理想としています。
日本における医療(cure)とケア(care)、その統合の必要性を考える場合、「治す医学」と「癒す医学」の違いも考えなければいけません。
我国でも、昨今、混沌とした社会が生み出すストレス等が病気を招き、数年前に比べ、精神的、心理的障害の患者数が増加しています。
また、高齢化社会を迎え、様々な病気の要因が蔓延しています。
それ故、現代社会は、健康や日常生活の延長上の存在である医療に関心が高まっています。
このような中で、医療技術は益々高度化し、最先端の検査機器や治療法が開発され、医師の視点は、患者ではなく、その検査数値や画像データに向けられ、患者とのコミュニケーションは、希薄なものとなりつつあります。
臓器の故障を機械工学的に直すのは単純系の医学でいう「治す」ですが、それに対し、私達のからだのポテンシャルを引き上げるのは「癒す」です。
私は、そう考えています。

科学は、「治す」為の医学を進歩させてくれました。
しかし、「癒す」ことに関しては、手が行き届いてないように感じられます。
帯津三敬病院の名誉院長である帯津氏は、
「癌のような人間まるごとの病気に対するには、体だけの医学では不十分で、人間まるごとの医学をもってしなくてはならない」
と仰っています。
複雑系の科学、医学でなければ癒すことのできない病気は、代替療法である「Alternative:近代が作り出したものに替わる、より望ましいもの」を動員することになります。
氏は、
「体に対する西洋医学、心に対するに心の医学、命に対するには、さまざまな代替療法を配して、一歩でも二歩でも理想のホリスティック医学に迫るべく努力を重ねてきました」
とも仰っています。
これは、人間の身体をバラバラに分化させるのではなく、全ての臓器や精神が、より良く「ひとつ」に活動するからこそ、健康が保たれるということに重点をおいた考えだとも言えます。

医学の祖、ヒポクラテス(BC460~BC375頃)の二代訓戒には、「まず、傷つけることなかれ」と「自然治癒力を崇めよ」とあります。
ヒポクラテスの誓いは、医の倫理を明解にした文書です。
その教えを忠実に守り抜いたオステオパシー医の権威であるアメリカのフルフォード博士は、第1に「身体は健康になりたがっている」、第2に「自然治癒力が大切」で、第3に「からだはひとつの全体であり、すべての部分はひとつにつながっている」、第4に「心とからだは分離できない」、最後に「治療家の信念が患者の治癒力に大きく影響する」と提唱しています。
この5つの理念は、フルフォード博士を師と仰ぐ、アンドルー・ワイル医師により、「5つの知恵」として体系化され、彼の著書に収められています。
お二人とも、人間を「生命の場」として捉え、総体的な治療を施した医師です。
日本で言う「医は仁術」を全うした方々です。
このように、アメリカでは、堂々とオルターナティブを使っていますが、イギリスでは、それに代わり、Complementary(相関的)を用いています。
最近では、この2つを併せてCAM(Complementary&Alternative Medicine)という呼称も用いられています。

「医療」とは、場の営みです。
「共有する場のエネルギーをそれぞれ引き上げていくと、全体のエネルギーも引き上げられていく」
というように良い循環が生まれます。
人が生きていく上では、お互いの気持ちの問題も複雑に絡み合う為、科学的に検証されていないことが山のように入って来ます。
これに対して、「医学」は、テクノロジーの提供です。
場の営みが癒しを担当するとすれば、詰まった血管にバイパスを作って物理的に治すのが医学であると考られます。
本来、主体となるのは医療であって、医学はそれに従属しているものですが、医学が急速に進歩し、医療の中で医学の占める割合が非常に大きくなった為に、本来の医療が見えなくなっているように感じます。
知識と技術を持った医師が、それを持たない患者へ、一方通行のように、医療技術を提供する事が当然の事のようになってしまったのではないでしょうか?
病院に行って、待合室で数時間も待たされ、診察は2~3分で、聞きたい事も聞けず、さして医師から原因を探るような話もなく一方的な診断で終わる……まるで流れ作業のような状況を、誰しも一度は体験し、その対応に疑問を覚えたことがあるのではないでしょうか?